なにこいつ なにこいつ

ところで、ぼくの文章の感じが定まらないのはなんでかっていうと、誰に向けて書いてるわけでもないからです。その時の書こうとしている内容とか気分で変わる。演じ分けてるっていうつもりはないんだけど、文章を書く為のキャラをいちいち自分の中で設定しないと何も言えなくなっちゃうところがある。人に会った時もそうで、例えば髪切りに行って美容師と「今日は良い天気ですね」「オフォwwwオヲロwwww窓が大きいので自然光がよく入ってきますなwwフォコボwwwッポブォww」などと会話してる時にふと「なんだこのキャラ……」って自分と別な自分を認識することがあります。時と場合によってキャラが勝手に切り替わるのが普通だと思うんだけど、人と会う時に周りにキャラを合わせるのとは違って、文章を書く時はキャラを自分で選ばなきゃいけないから、自意識の葛藤とそれを回避する手間が掛かっちゃう。その手続きを経ないと表現にならない。

ぼくはキャラを自覚しちゃうことが多いんだけど、ぼくと違って自分のキャラに無自覚な人も、人のキャラにはすごく敏感だったりしますよね。メールで何故か普段と違って敬語だったりタメ口だったりして

 

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ってなるという話はよく聞きます。

人のキャラを意識することは自分のキャラに自覚的になる切っ掛けの一つですよね。他には、人にキャラを指摘されてそれまで無自覚だった人格に気付く場合がある。あなたらしい/らしくないとか言われて惑わされたりして、「そうなのかなあ」って自意識の迷宮ラビリンス(迷宮ラビリンス)に入り込んで、結局、迷宮入りしてしまう(迷宮ラビリンスに入って迷宮入りしてしまう!)

その自分探し(死語)にはまると抜け出せなくなる。人に救いを求めても「考えたって無駄なことを考えるのを考えずしてやめることが可能だと知れ」などと臨済宗みたいな無茶なことを言われる内に更なる深みへとはまっていく。

ならばどうすれば良いのか考えてみると、自分に好意的な他者を想定することのような気がします。誰も自分のことなんか興味が無い、自分の感じたり思ったりしたことは人にとって退屈なことかもしれない等と考えていくと、侠客とかドカベンみたいに無言実行型の人間にならざるを得ません。でも人間って表現だ芸術だ文化だなんだって余計なことばっかりして、山があったら意味もわからず登って、なんで登ったのかきかれても「いや、だってけど……山があるからさあ……」とか言って理由なんて答えられないような、余計なこと考えて無駄口叩いてばっかいて勝手に疲れたりしてる、ハイレベルな生き物なんだって開き直ったって、みんなそうなわけだから誰も咎められないし、神様は何も禁止なんかしてないから、先進国に生まれて本当に良かった。増税やめろバカ!