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文中の「~じゃない」は「~じゃない?」だとか、「~だは」は「~だわ」だとか思った後、「書き手からしたらそんな細かいニュアンスを捉えられて、文章をスムーズに読んでもらえないのは歯痒かろう」なんて思ったりして、もう余計につまずくなんてことがありますよね。他にも、「やけに改行するなあ。一段目だけ見たら文字よりも段落の方が多いんじゃないのかなあ。いくつだろ。一、二、三、四……」って数え始めたりする時もあれば、誤字脱字を見付けたり、専門用語があったり、変なとこが漢字や平仮名だったり、集中力がよく途切れるんだとかなんとか枚挙すると神経症みたいに思われそうでいやなんだけど、注意が本筋から逸れがちな寄り道志向の同志は理解してくれるんじゃないかなと思い、このテキストを書こうと筆を取った(今、「キーボードは筆じゃねえ」と思ったあなたに向けて書いた)次第です。

 

文章でなくても会話でも、表現やコミュニケーションをする時って、立板にアレを流すくらい自然でスムーズである(スムースが正しいというのは知っているけど頑なにスムーズをやめないし、更に看護師を看護婦と呼び続ける)ことが理想なわけですよね。余計なこと考えたり、意識したりせずに言わんとしてることを理解したりさせたりするのが好ましい。例えば人の話を聴く時の姿勢でいえば、「なるほど……」って頷いてるのが理想なわけで、「なんだか色々良いこと言ってんのか知らんが羅生門みてーなニキビ出来てんなこいつ」とか思ってたら全然集中できてないわけだから、ニキビは異物として除去する方がスムーズにお話が通じることになります。

そのニキビ的なものの除去が上手い人というのがいます。例えば、難しい話を簡単に話して理解させる人とかがいますよね。ニキビ的な、理解を困難にする専門用語だったり概念的な話を解りやすい形や順序で……もう池上彰でいいや。池上彰みたいな人はこんがらがった情報を整理して、おろかなピープルでも解るレベルにして説明してくれてありがたやってなもんですよね。そういう池上彰的な人のことを賢い賢いってありがたがる。で、難しい言葉を難しいままに、解りづらい説明をする人のことを下に見たりして、「あいつはニキビ八千個あって全然何言ってんのか聞く気にもならん」みたいな感じになっちゃう。で、そういう時、確かに解りにくいのは面倒だとも思うんだけど、その反面、自分で理解する苦労を人に預けてばかりいるのが当たり前になっちゃってるのもなんとなく心地が悪い。攻略本読んでゲームやってるみたいなものだし、身も蓋もない感じがする。解りやすいっていうことはそのぶん頭使ってないわけだし、すぐ老けそうな気がする。

 

ツイッターなんかやってて思う人も多いんじゃないかと思うんだけど、「何を言ったか」と「誰が言ったか」ならどっちが大事かっていう話がありますよね。

こないだ映画観た後に読んだビートたけし原作の『教祖誕生』では、「たんに朝起きてどうしたこうした、誰が訪ねてきたとだけ書いてある。読者はそれを漱石先生の文章だといってありがたがる」んだと書いてありました。ぼくはインターネットという暗黒世界で長い間名無しとして生きてきた人間だからか、誰とかじゃなく、出てくるものの方が大事だっていう意識があります。「あの人が言ったから面白い」とかいう楽屋落ち的なノリにもう一つ馴染めないのもあるのかもわかりません。内輪ネタで盛り上がっている時は「これは外から見たらとんでもなく気持ち悪いに違いない」などと察知してしまい、輪の中にいても溶け込み切れない自分の存在に気付いたりなんかして……

 

関節をポキポキ鳴らす癖をやめようという決心を表明する為にブログ書こうと思ったのに、どうしてこんな暗い感じになってしまったんでしょうか。

 

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こういうのを貼れると知ったので貼りました。