30分でブログを書く

言いたいことなんかなんにもないって常日頃思って独りでぼそぼそ言う。独りでいるとぼそぼそと、特に料理してる時なんかは口が勝手に動く。なんなのか。そういう人とはあまり関わり合いにならない方がいい。もう二分が過ぎた。

舟を編むは面白かった。借りずにタダで観られて良かった。ただテレビ用にカットされたのか、もう一つ繋がりが悪い気がした。映画観ると文句ばっかり言っちゃって良くない。映画が好きじゃないからしょうがない。映画を好きになった方が楽しいだろうなとは思うけど好きじゃないものは好きじゃない。好きなのかどうか判然としないものがあった時、好きなものとして推定して、とことん「本当に好きなのか?」と自問したりひたすら好きなように振る舞ってみたりして自らを試そうとするところも良くない。ただ、あらゆるものを好きかどうか判断しなくなるとどんどん鈍麻して自我が薄らぎつつも消えず、境界の見えない混沌とした世界で彷徨い続けるんじゃないかと怯えているので、好き嫌いなりそうでもないなり判断しないするに及ばないなりなんなりは決める。いつだったか思春期の頃に父が「思うということは決めるということだ」と言ったのをよく憶えていて、ぼくは「反発」のB連打以外の一切のコマンド入力を禁じられた人造極左サイボーグとしての自負があるので「んなことあるかいてやんでいこの酔っ払い」と心ではけなしていたんだけど、どうにも一筋縄ではいかなそうな言葉で、結局感心してしまった。マグレだけど。文脈無く抜き出してるからちょっと解りづらいんだけど、「人は決めつけなしに思考できない」と換言できる。ぼくは「はい!!!今!ここ!今決めた!はいはい!はいーーーーッ決めましたー!イエーイ!ガンギマリ!(ドンドンドンパフ)決めたなう #決めた」みたいに意識的に判断することが「決める」ということだと思ってたから「ぼくは決めた覚えはない!色々考えてる!だがまだ決めてないぞ何も!どうだ!ほら決めてない!」って憤って家の皿を全部頭で割ったんだけど、そうじゃなくて、「人間は考えを巡らせてる時に、絶えずあらゆる概念を自動的に分別している」ということを「決める」と呼ぶこともできるんだということに気付かされて、納得してしまった。若気の至れり尽くせりだった当時のぼくは、あらゆる先入観や固定観念みたいなものをなんとか解体処理(破壊しようというようなロックンロール精神はない)できないかと苦悩していて、「大人が憎い!世間が憎い!ねえねえ理解できる?……あっうるせえ喋るな!誰もぼくを理解することなんてできやしないんだから!理解はやめろ!理解は今すぐやめろー!理解には断固反対する。判断もするな。型に嵌められるのはお断りだ!ぼくを見ろ!しかし何も思うな!バイアスの全くない、澄んだ瞳で見ろ!!!」と臨済宗くらい無茶なことを毎日駅前で「本人」と書かれたたすきを掛けてトランジスタメガホン片手に叫んだ。あらゆる決め付けを拒み、自分だけは何も決め付けずフラットに万物を観じようと試みた。しかしそれは無理だと気付かされた。それでもうしょうがないから、「『気付いた時には既に決め付けている』というのは、理性を持った生き物の原罪なんだ」と諦めて、できるだけその決め付けに対して自覚的になり、自分なりの視座のようなものを形成し始めた。自覚的になったことで、好きなものや嫌いなものを「本当に?」と疑うようになった。それが良いことかどうかといえば、ぼくが「無自覚よりはマシだ」と決め付けているからやめないとも言えるし、逆にやめたくてもやめられないからマシだと決め付けざるを得ないとも言える。一見、好きなものを迷わず好きと言えない不幸がありそうだけど、やっぱり理屈抜きに好きなものってどうしようもなくあるものだし、迷わなくなろうとするかどうかは不惑を過ぎた後にでも考えたんで良いだろという感じでなんだか辛気くさい話になっちゃったな。