人を好きになるのに理由はない

 人を好きになるのには理由がないというのはよくいわれていることで、今更指摘するまでもないことのように思えるが、理由がないと知りながら「あの人のどこを好きになったんですか?顔ですか?」と尋ねる人があったり、「わたしのこと好きなら、好きなところを10個挙げてみてブヒィ!ほら!言えないじゃないのブヒィ!!ブッヒィ~~~~~ン!!ッフガァッ!オエエッ!!ビチャビチャ」等とパンプスを振り回しながら明け方の繁華街で喚く人があるのは当世に限ったことではない。

 

 好きになった理由として「やさしいから」「バク転しながら手裏剣を躱すことができてかっこいいから」「ジョゼフ・ゴードン=レヴィットそっくりだから」というような回答はよく挙げられる。これらは一見すると、好きになる理由として通用しそうだが、しない。

 

  例えば、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット似の男がマッハ7で飛んでくる手裏剣をニュートリノのスピードで躱し、その勢いを利用して五兆年掛けても消費できない量の電気を生んだとしても好きになるとは限らない。あくまで、好きになった人がたまたま、バク転しながら後発発展途上国に九億発のポリオワクチン支援をしていたジョ ゼフ・手裏剣=レヴィット風だったに過ぎない。

 

 これまでの間に、手裏剣・善人=レヴィットのような人ばかり好きになってきた、というような人も同様だ。ケツに手裏剣が刺さりまくった状態でオオゼキの精肉コーナーに出現しパックの中の厚切り肉を爪の先でつついてポリ塩化ビニール製のラップフィルムを突き破る遊びに興じているミスターマリックの中に善人レヴィット手裏剣性を見出すことはあり得る。つまり、恋愛関係が生まれる過程に共通していた要素をいくら抽出してみても、あくまで傾向でしかなく、理由とは言えない。

 

 唯一、好きになる理由として成立する例を挙げるとするなら、「ジョゼフ・ゴードン=レヴィットが、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットだから」ということになる。ジョゼフ・ゴードン=レヴィットを好きな人にとって何よりも重大なのは、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットが、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットの兄でも、ミスターマリックでもない、他の誰でもないジョゼフ・ゴード ン=レヴィット本人そのものだということだ。ジョゼフ・ゴードン=レヴィット以上にジョゼフ・ゴードン=レヴィット的なジョゼフ・ゴードン=レヴィットがお らず、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットがジョゼフ・ゴードン=レヴィット以外の人間と比較しようがない程にジョゼフ・ゴードン=レヴィットとしての同一性を保持し続けているという厳然たる事実こそが、好きになる為の最小にして最大の理由なのである。

 

―了―